自分の体で、試す。
やるべきこと。考えること。勉強すべきこと。普段の生活・・・・
とにかくやるべきことは毎日毎日、まさに怒涛のごとくやってくる。
どこかで忘れたり、手を抜いたら後ですべて自分に跳ね返ってくる現実。
だから忘れないように手に書いた。
毎日、手は書き殴った文字で隙間もないくらい一杯になった。
帰りの時間は電車の中でブツブツ言いながら当日の反芻。周りから見れば「?」な人物に見えたに違いない。
苦労を苦労と思わない、親からもらったこの我慢強く少し鈍いくらいの自分の性格がなければ、とっくにおかしくなっていただろう。
帰ってからは自分自身の体に鍼を打った。自分の体は嘘をつかない。これ以上ない実験台である。
結果はすべてノートに書き殴った。
疲れて体に鍼を刺したまま眠り、そのまま朝を迎えることもしょっちゅうだった。
院長の驚きの一言。
治療院に勤めて1年ほど経った頃だった。
『患者さんに寄り添う』という意味がようやくわかり、自分のファンになって頂ける患者さんも増えてきた。そんな時のことだ。
激務の中、いよいよ体調がおかしくなった。めまい、疲れ、微熱が続く。体が悲鳴を上げているのがわかる。騙し騙しも限界だった。
「村中、ちょっと来い。」
それを見抜いた院長が営業後、治療をしてくれながら言った。
「村中・・・・いや、村中先生。」
「・・・はい。」
「もしおまえが倒れたらな・・・」
「はい・・・」
「俺はこの治療院を一か月閉めるからな。」
「え!?」
「・・・・・おまえはそれだけここに必要な人間ってことだ。」
どっと涙が溢れた。
「だから早く治せ。わかったな?」
今までの苦労が認められた。やっと報われた思いでいっぱいだった。
「頼むぞ。」
「はい!ありがとうございます!」
それからも患者さんの数はますます増えていったが、村中はキツいと感じることが少なくなっていった。
自己重要感は今まで感じたことがないほど高まっていた。
『俺はこの道で一生生きていく!!』その覚悟が決まったのもこの頃だ。
両親の愛に。
「あんた、頼むからもう問題起こさないで。お母さんもう、謝るの疲れたわ・・・・」
やんちゃすぎる子供時代。友達と遊び回り、怪我するのも相手に怪我させることも度々だった。
そのたびに謝りにいく母。迷惑を掛けたことを今も申し訳なく思う。
そんな母から月に一度、荷物とともに息子を心配する手紙が届く。
荷物の中身は食糧が主。東京では手に入りにくい、村中の好きな赤だしの味噌。
そして米、野菜、レトルト食品。
手紙はいつも同じような内容だった。ぶっきらぼうで無関心を装う父が実は一番心配していること。毎日息子の話題が出ない日はないこと。
最後はいつも”あきらめずにやり抜きなさい”というメッセージで締めくくられていた。
今まで感じたことのなかった親への有難みを感じ、一人手を合わせた。
父は直接何か言ってくることはなかった。しかし、心配は杞憂だった。
それは従妹からのメールにあった。
「おじさん、会うとまーくんの自慢ばかりしてるよ。凄く嬉しそうにね。」
ある時感謝を込めて、返事を書いた。
『いつもありがとう。二人の子供に生まれてよかったです。僕は大丈夫。死んでもやり抜くから見守ってください。』
近くにいれば照れ臭くて言えるはずもないが、手紙だと言えた。村中のありのままの気持ちがそこにはあった。
「俺がやりたい治療は・・・・」
ある時、鍼灸学校時代の仲間と飲んだ。
驚いたことに、彼は独立するのだと言った。
「ふたつ道があるとするじゃん?ひとつは愚痴言いながら会社で働き続ける道。もうひとつは自分で新しいことを始める道。・・・・村中はどっち?」
「そりゃあ、独立だよ!だけど・・・・・」 歯切れの悪さに自分でも気付いた。
●
自分が本当にやりたい治療とはなんだろうか。それが決まらないうちは独立などできない。
なぜなら決まらない限り、師匠である院長を超えるための一歩が始まらないからだ。
それからは毎日毎日、自分のやるべき治療について考えた。
同時に、自分の将来のことも考えるようになった。
●
「すみません。その症状は鍼灸では何ともならないんです。」
ある時、この院長でもそう答えざるを得ない患者さんが存在することに気付いた。
いわゆる難病と呼ばれる病気を持ち、藁にもすがる気持ちで治療院を訪れる患者さんだ。
「無理なものは無理って言わなきゃいけないんだ。期待を持たせるのも罪だし。辛いけどな・・・。」
信じている鍼にも不可能がある現実。藁にもすがりたい人を何とかできないジレンマ・・・・
“本当に無理なんだろうか・・・何か方法はあるのでは・・・・?”
理想は相手の期待を上回る治療を行うこと。やるしかない。肚は決まった。
「難病と呼ばれる病気にも強い、患者さんの一縷の希望に応えられる治療院を自分で創ろう、そう思ったんですよね。」
そこからは毎日がさらに楽しくなった。
勉強に次ぐ勉強は時間を忘れて朝までになることもしばしばだった。
名古屋で開業する!
難病治療も自ら手掛けるようになり、評判も上々。
友人たちから”明けても暮れても鍼灸のことしか頭にない鍼灸バカ”と呼ばれても、自分には最大の褒め言葉に感じた。
『もうそろそろだな・・・・・』
ずっと独立のタイミングをはかっていたが、準備をするためには退社しなければならなかった。
それは独立の地に選んだのが故郷・名古屋だったからだ。
理由はシンプル。恩人であるこの院と患者さんのバッティングを避けること。
そして自分の生まれ育った街への恩返しのためである。
運命って、変わるんだ!!
名古屋に戻り、物件探しに訪れた不動産屋で、村中はある一人の人物を紹介される。
この人物との出会いが、村中のその後の運命を一変させた。
内装工事一式を行ってくれた会社の社長。この人物がいい意味でとんでもなかった。様々な会を主宰し、人脈も豊富。
工事はおろか、看板を描いてくれる先生から広告のプロ、何かあったときの弁護士、誰でも知っているプロアスリート、顧客心理を徹底的にレクチャーしてくれるカウンセラーの先生、そして肝心カナメのたくさんの患者さん、果てはその後の村中の治療スタイルに革命を起こすほどの治療法を伝授してくれる新たな師匠まで、すべてを繋いでくれたのだ。
飲み会やイベントなどのコミュニティーに参加したら、一気に100人を超える仲間もできた。今では皆が慕ってくれる。
この間、わずか数か月。村中の運命は変わった。
「自分の強運っぷりに顎が外れそうですよ(笑)。」
そう言って本人が笑うほどだ。
しかし村中の強運はこれだけでは終わらなかった。
「絶対にやめとけ!!」
「あんな激戦区、わざわざ死にに行くようなもんだぞ!考え直せ!」
「まあ、半年だな・・・・そんなにもたないと思うけどな。」
相談した同業の友人が言うことは全て散々な内容だった。
「あそこだけはおまえじゃなくても絶対無理だって!」
開業の地に選んだのは誰もがそう言うほどの超激戦区・名古屋市名東区一社。
ここを選んだのは街並みが気に入ったのと、『絶対にここじゃなきゃダメだ。
ここには自分が開業すべき理由が必ず現れる』という完全な直感だった。
自分の中でひとつの軸を決めた。それが『あきらめない』ということ。自分に夢と希望を託してやってくる患者さんを絶対に笑顔で帰す。それだけを考えたのだ。
そしてついに、夢だった『あいわ鍼灸治療院』、オープン。
驚いた。オープンしたての時期こそパラパラという入りだったが、1か月後には「あそこは必ず結果を出してくれるぞ」という評判を聞きつけ、午前の予約はすべて埋まるようになったのだから。
それから毎日、日々満員御礼。地域の方々には感謝してもしきれなかった。
村中にしかできない治療法!
村中の下では、改善が難しいとされる症状の改善例が多くでてきた。
噂を聞きつけ、患者さんは遠くでは四国や九州からもやってきた。
治療技術の研鑽は勿論のこと、様々な機械の導入も随時行っている。
「機械の導入は自分自身が日数をかけて何度も何度も体験し、『これだ!』と思ったものだけを採用しています。」
今年からドーム型のゲルマニウム温熱治療器を導入した。
体の芯から温めてくれることで血行が猛烈に促進される。
するとどうなるか。鍼を打った時の体の反応がまるで違うのだ。
発汗によるデトックス作用もある。冷えや不妊の方には特に良く、何をやっても
疲れが取れない人やアトピーの方にも村中が自信を持って勧めているものだ。
「先生、ホントに疲れなくなったわ。ここまではっきりわかるとね、もっといろいろ挑戦しようかって思うのよ。市民マラソンにも出ようかって、ね。」
患者さんからこんな言葉を聞けるのもこの機械のおかげだ。
朝の日課で。
ある時、大きな会社の社長夫人がやってきた。
重度の自己免疫疾患。何度か来て頂くうちにほぼ治ってしまったことに本人も驚いた。
「今まで色々なところへ行ってきたの。香港がいいと言われれば香港へも。でも何ともならなかったのに、ここにきたらたった三回でこうよ!」
夫人は曲がるようになった両手を、閉じて開いてを繰り返して見せた。
「そうですか。なぜうちに来られたんですか?」
「朝ね、この前の道を通るといつもあなたたち二人が綺麗にこのあたりを掃除してるじゃない?若いのに、この人たちは信用できそうって思ったのよ。」
村中は朝、近辺の掃除をして回る。
もちろん綺麗にするのは気持ちがいいこともあるが、院とお越し頂く患者さんとを結び、繋いでくれる『道』に感謝の気持ちを表す意味が強い。
安全に、少しでも綺麗にしたいという思いがあるためだ。
街ゆく人々とのコミュニケーションできる嬉しさもある。
だから掃除ほど、いいことだらけのものはないのだ。
「先生おはよう!」
「おはようございます!いい天気ですね。顔色もいいじゃないですか!」
「おかげさんで。先生のおかげだわ。毎日調子いいもんで先生の顔も見れんわね。」
「それが一番いいじゃないですか。悪くなったら思い出してくれればいいんですから。」
「何かあっても先生がおるで安心だわ。」
こんな朝のひと時にも幸せを感じている。
喘息に苦しむ男の子。
「ゲホッ!ゲホッ!ゼー・・ゼー・・・・・」
辛すぎる喘息の発作を抱え、その男の子はやってきた。
3歳というが、標準よりは幾分小柄に見える。
かわいいこの子もいざ発作が始まると本当に苦しそうだ。
今まで様々な病院で炎症を抑える薬や、気管支を広げる薬を始めとする様々な治療を行ってきた。
親御さんとしても苦しむ我が子の為なら何でもしたいと考え、常にもっと楽にしてあげられる病院はないか探している。
同じように喘息に苦しむお子さんを持つ親御さんたちとの情報交換も欠かせないと言う。
この男の子の場合はどんな治療でも改善すらされず、少し走ったらゼーゼー、ゲホゲホとなってしまう。
「発作が出てひどいときには夜間の救急病院に運ばれるんです。もう、見ていられなくて・・・・」
母親の願いは、外でいっぱい遊び、丈夫で健康に育って欲しい、ただそれだけだ。
しかし、今の状態ではその願いすら叶わず、とにかく発作が出ないように運動を控えさせることしかできないのだ。
そんな時、たまたま膝が悪いその男の子の祖父が通っていたあいわ鍼灸治療院の話を聞いた。
お電話ありがとうございます、
あいわ鍼灸治療院でございます。